それで

いろんなことを経験したって、何の役にも立たずに過ぎ去って意味のない時間となる可能性はある。

でも、だからどうしたというのか。

私は今回行きたいところに行ったし、自分でその都度するべきことを選んで行動した。

旅は特別な時間ではなく、生きてる中での一部の時間を切り取ってそう呼んでるに過ぎない。と言える。

友達との旅行について

二人以上で行く場合・・・たとえば親友と旅行に行く場合などは全然違ってくると思う。

ただその友達と一緒にいることに意味があって楽しいことなので、どこに行ったっていいと思うかも。あるいは、自分は大して興味がなくても、その友達が行きたいところに一緒に行くというのもすごく楽しいと思う。

だから、二人以上で旅行するのと一人で旅行するのは、全然得られるものや楽しみ方の種類が違うんだ。


帰国した日、親友に電話して早速ご飯を食べに行った。
「ニューヨーク、いいなー!」と言ってくれる。「もうさ、海外とか行っちゃうと、日本のコトとか、すごくちっちゃいものに思えちゃったりしないの?」と聞かれた。意外だ。全然そんなこと思ってなかった。

とても不便な思いをしてきたので、日本、素晴らしい、美味しい、清潔、快適、としか思ってなかった。

でもその友達と一緒にもし行ってたとしたら、「ここに行きたいね!」「これ美味しいね!」と何でも楽しく共有できただろうし、「楽しかったねー!」という旅行になっていたことは、これは間違いない。日本に帰ってきてからも「日本もいいねー!」と乾杯していただろう。

と考えたら、一緒に行けなかったのがとても残念になった。何で私はシンプルに楽しめないのさ、という気もした。
でもどっちかだけ経験するより、どっちも知ってる方がいい。

一人旅について

問題はその後で、ニューヨーク2日目の朝、先輩が帰国してしまってから、一人旅になった。ちょっと取り残された気分。

一応いつも一人はさびしいなと思っているのだけど、一人旅になることが多いのは、潜在的に自分で選んでいるんだと思う。

ツアーに参加すると一人じゃないかもしれないけど、ツアーはできれば避けたい。割高でも、伝わらなくて間違っても、自分で切符を買って電車に乗って移動したいし、バスでつれてってもらわないで、自分で道路を歩きまわりたい。不便な中でもがくのが醍醐味だと信じている。


さしあたり、観光名所を回ってみた。自由の女神や、タイムズスクエア。噂のベーグルを食べに行ったり、ブルックリン橋を渡ってみたり、おしゃれな街をショッピングしたりしたのだけど。

どうしよう、自分で選んで来たのに、あんまり楽しくない。という。

去年ハワイに行ったときは、米国の医学図書館協会の年次総会に参加するのと、近隣の図書館6館を精力的に回って、全然観光をしなかったし、その前ロンドンに行ったときは1週間ほとんど毎日語学学校に通っていて観光をする暇もなかった。だから、今回は図書館と関係のない、ただ遊ぶ旅を後半はすることにしたのだ。ところが、観光ってあんまり面白くないではないか。


どうしよう、私は観光が好きではなかったのか!何をしたらいいのかーーーー!

などとニューヨークに行ってから考えたくはなかったのに、考えないといけなくなった。
もうガイドブックを見ても、行きたいところが見つからない。とりあえず地下鉄でマンハッタンの端まで行ってやれ、と125丁目のハーレムまで行ってうろうろ歩いてみたり。楽しみだったはずのミュージカルは素晴らしかったけど、何か腑に落ちない。

やばいなと思っていたニューヨーク4日目の朝、うっかり鍵を持たずに部屋を出て、オートロック状態になっていたドアが閉まってロックアウト。台所で午前中を過ごすはめになった。

その間仕事の書類を書いたり、親切な他の部屋の女性たちと話したり、ロックアウトから救助されてから、コインランドリーに行って洗濯をしたりする何でもないことが楽しかった。何か、好きなことして過ごせばいいんだよな、と思った。

航空券を買って10時間以上も狭い空間に閉じ込められてわざわざ来たんだし、と旅行中は焦ってしまうことがよくある。


でも本当は、日本にいて何の変哲もない毎日でも、一日一日いつか死ぬ日までの回数券を使っているんだ。それを、旅行中の限定された時間だからこそより強く感じることはできる。本当は、そこまでされなくてもわかる人もたくさんいるだろうけど。私は。


ただ、これがパックやツアーの旅行だったらどうか?あちこち自動的につれていってくれるから、自分で考えてる必要なんてない。それはそれで、あちこち効率的に回ってよい旅行となろう。でも、私はそれでは満足しなかったような気がする。


今回の旅では、知らない町で、相手の英語も聞き取れず不便な思いをしながら歩きまわるのをしんどいながらも楽しんだ。それから、一人で目的のない旅をしてみて、こうやっていろいろ考えることができたのが、私の今回の収穫か。

先輩との旅行について

今回幸運なことに、尊敬する図書館員の先輩二人とご一緒した。
一緒にいるだけで勉強になる先輩二人と一緒に過ごせて、私にとってはいいことづくめの旅行だった(前半)。

先輩二人が素敵な男性であることはもちろん嬉しいことであるがそれは置いても、仕事の話を聞いてるだけでも有益で、大学院の博士課程に通ってられたこともあり、普段の仕事以外に大学で非常勤講師も勤めたりされている。それで、ホテルの部屋に飲み会のためお邪魔した時には、授業で使おうとしているパワーポイントを見せてもらったり、博士課程でどんなことをするかを教えてもらったりと質問しては教えていただいて、刺激を受けた。

一方で、私が何を先輩方に与えることができたか?迷った時に道順を聞いたとか、チケットを買う時に英語で言ったとか、チャイナタウンで持ち帰りのチャーハンを調達してきたとか、部屋に戻ってから飲む時一緒にお酒を飲んだとか、せいぜいそれくらいではないかと。

私が先輩方より年下であることで、今の先輩方とは違った視点から(でも先輩方は以前に持っていたかもしれない視点から)一緒に見たものについての意見を言うことができたとか・・・くらいは言えるか。あるいは女性としての視点とか?うー、だめな気がする。

でも、普段はじっくりと3人で飲むということもない方々なので、海外という特殊な環境で飲んでいたことは何かより密接なつながりを持てたような気がする。今後もお会いすることが多々あると思うので、何かお役に立てたら嬉しいと思う。



そこまではいいとして。

何のために旅をするのか

約1週間、フィラデルフィア・ニューヨークへ旅行してきた。

フィラデルフィアでは、フリーライブラリーやライブラリーカンパニーなど、図書館というものの原点をたどる旅をした。

インフォーマルコミュニケーションの限界

研究会とか、勉強会とか、それに関わる飲み会などには、昔から積極的に参加するほうだ。

もともとのきっかけは、就職したての頃の職場が荒廃していた(今は違う)ので、助けを求めて出かけたようなものである。希望してない図書館に配属された脱力感もあったし。自分の仕事は全然楽しくなかったし、職場の人間関係はギスギスしていたし。

医学分野の研究会や勉強会に参加してみると、たくさんの素晴らしいライブラリアンにお会いして、医学図書館員ってすごくかっこいい!と興奮したものである。その後、劇的に変わったことはないけれど、日々の業務や上司との向き合いかたを少しずつ変えていったように思う。かっこいいライブラリアンの方々を見て、無意識のうちに、どうやったらあんな風になれるのかなぁ、と思っていた。それから、他の大学の勉強会にも顔を出したりするようにもなった。

それで、インフォーマルコミュニケーション。
会の後の飲み会でその人たちとお話ししたら、面白い話も聞けるし、進んだ事例も知ることができるし、楽しいし、いいことばっかりである。

でも、あちこちの会に顔を出してたくさんの人と顔見知りになっても、そのうち、自分が未熟だと、話が続かないことに気付く。相手の持っている知識や経験に対して自分があまりに勉強不足なために、自分から話も切り出せないし、話の内容がわからなくてはがゆく感じたり、自己嫌悪に陥ったり、空回りしたり。

それもひとつの勉強ではあるけれど、これはある種のインフォーマルコミュニケーションの限界だと思う。

やっぱり、知識や経験を重ねるためには、自分自身が何かをやらなきゃいけないということ。当たり前なんだけど、昔は気付かなかった。

だから、私は言いたい。いつまでも人の発表を聞いてるだけではだめ。
自分自身が発表する機会を求めていくこと。

発表をするのは、どこかの会の実行委員を安心させるためではない。
一度も発表したことない人は、発表した人とは対等に話せない。質問もできない。

何かをするとき、他の館でどうやってるのか雑誌を読んだり発表で聞いて参考にするけど、それは記事に書いたり発表する人がいたから参考にできるのである。とりたててすごいことをしてなくても、自館の状況を報告してみることから始めたらいい…と先輩に教わった。実績報告をみんなで積み重ねるのは大切なことだから意味があると。

私たちは研究者ではないけれど、サービスを良くするための実践的な調査研究の努力は時間を見つけてやっていきたい。なかなか、できてないけれど。やってみたら、できるだけ書いたり発表したりして情報を共有する。


そういうことを実践してから、もう一度インフォーマルコミュニケーションをしてみると、これはまた、全然違う素晴らしい発見がある。同じ人とでも、断然実りのある話ができる。質問したいことが変わってくる。


私は、BlogやTwitterをしない人の一部は、自分の知識や経験を積み重ねるので精いっぱいだから手を出していないんだと思う。まだその時期が来ていないと判断しているだけだと。それはそれで、良いと思う。誰もがやらなきゃいけないことはない。

出会うべき人には、自分の準備ができたら自ずと出会える気もする。
自分を育てるのは自分の判断で、自分のペースでやってこ、と思う。

2010/3/9 ちょびっと改訂 「自分自身が発表する機会を求めていくこと。」と入れました。

講習会と集客

利用者のニーズの把握は難しい。
利用者教育については試行錯誤して、多少はよくなってきていると思っていたけど、間違いだったかも。

私が初めてこの業務についたときは、利用者にいつでも門戸を開いている感じにすべきなのではと思って張り切りすぎた。

その時は、毎月OPACの講習会、隔月でPubMed講習会、医中誌Web講習会、JCR講習会…といった風に、次々と講習会を繰り出した。しかし、OPACの講習会は参加者1名、あるいは誰も来ないことなどもあって、準備したことが悲しくなることも多々あった。一人で準備して一人で講師も司会もセッティングもやるので、他のスタッフにそんなに負担をかけないからと好きにやらせてもらえたのはいいけれど、無駄なこともいろいろやってしまったと思う。

その後図書館職員も定数減になり、好き勝手やれる状況にはないので、図書館で企画するデータベース等の講習会は、ニーズを見極めて、集客できそうなものに絞ってきた。

この間書いた事例報告http://opac.ndl.go.jp/articleid/10265711/jpnでは、ニーズ調査を行った上で必要とされるデータベースの講習会を絞り込み、その他は希望に応じて教室に講習会を出前するという形でやっていく予定だと書いていた。

先月企画した講習会、申込制にして人数を把握しようと思ったら、当日になっても2名から申し込まれたのみという事態に陥った時には、偉そうなこと書いちゃったけど、うまく行かないよ〜と泣きたくなった。

1週間くらい前から、これはやばいこれはやばい…と心配が止まらなくなった。ほかの図書館の人と話していたら、「それは、ニーズのないテーマを選んだか、日が悪かったか、時間が悪かったんでしょう」と言われた。テーマは悪くないはず、日時は悪かったのかもしれないけど、いまさら変えられない。

あーー、心配してるだけじゃだめだ!と対策を考えた。
・チラシをカウンターに置くだけではなくて、ターゲットとなりそうな医師が来たらさんざんアピールした上で渡す。
・教室の秘書さんにも「この講習会に興味がありませんか?あるいはありそうな人、いませんか?ぜひ来てください!先生にも紹介しておいてください」とアピールして渡す。
・図書館のコンピュータの前に座っている人にも、どんどんチラシを配って、来てくださいと呼びかけた。
・大学事務局の中で、関係ありそうな仕事をしている部署に電話をかけて、仕事と直結するデータベースの講習会があるから来てくださいとお願いする。
・大学院生にはメールで再度PR。あなたの研究業績を確実にアップする!と書き添えた。

その結果、アピールした人が何人か来てくれて、10人くらいの講習会になった。これなら、外から来て話してもらう意味があると思った。忙しい医師がこれだけ集まってくれたのだから、ありがたかった。

講習会を甘く見ていた。テーマの選び方、日程と時間の選び方、広報の工夫。
それから、申込制という方法についても検討が必要。どうも、申込制でも当日行ったら参加できる、と見抜かれていたようなので・・・やめるのか、工夫するのか。
次回はもっと準備していこう。

チラシの作り方や広報の方法を知りたいと思っていたら、この本を紹介してくれた人がいた。さっそく図書館で借りてきて読んだら、すぐ実践できるアイデアを惜しみなく書いてくれていて、とても参考になった。

牟田静香著
人が集まる !行列ができる !講座、イベントの作り方 (講談社プラスアルファ新書)
人が集まる !行列ができる !講座、イベントの作り方 (講談社+α新書)